法律は、無知を救わない。
知らないことがリスクであり、今回のような詐欺事件は世論も手を差し延べてはくれない。
「このまま泣き寝入りでは、父も浮かばれません」山田は倉橋に肩を落としながら言った。
「もう、財産らしい財産もないに等しいわけですから、先生、できる努力をしてください」
「そうですよね」思ったとおりの山田の反応に、ちょっと安心しながら倉橋は答えた。「司法だって、事実がわかれば理解してくれると思いますよ。とにかく、いまは保全手続きに専念しましょう」
正直、倉橋も不安であった。権藤の会社や中岡不動産なら直接の相手方だが、彼らから先となれば第三者であり、仮差押手続きなどを行って、その第三者が被害を蒙れば、山田までとばっちりを受ける可能性が高い。この場合、不動産取引の額が大きい分、損害賠償も多額になってしまう。
このような詐欺事件の場合、騙されるのは瞬間であるが、取り返すにはたいへんな労力とリスクを伴うものである。
「先生、大変なことになりました」こちらから篠原弁護士に電話を入れようと思っていた所、篠原弁護士から倉橋に事務所に電話がかかった。「権藤が、亡くなりました」
「しかし、面倒なことになったな」しばらく沈黙してから倉橋が言った。「ま、中岡不動産が存在するから、進行には影響ないか」
「そうですね」篠原弁護士も、倉橋の話に同調するように言った。「すでに破産してしまっていますから、こちらは粛々と事務手続きを進めるしかないですね」
倉橋は、篠原弁護士に、打合せ後の山田の意向を伝え、取りあえず急いで手続きをしてもらうように話をした。
裁判の場合、原告、被告、今回、仮処分の申し立てであるが、この場合、申立人、相手方と呼ぶが、いずれも当事者として争う。今回の場合、原告の山田側も、相手方の一人、権藤が亡くなったとなれば、事務手続きの変更に時間が掛かってしまうし、裁判所とも打合せを繰り返さなければならない。その為、篠田弁護士は、その打合せの詳細について、逐一、電子メールで同報してくれていた。
ただ、裁判所の窓口の扱いにも不満は募るし、転売されてしまっては保全手続きの意味すらなくなり、裁判は長期化し、新たなリスクも発生してしまう。
「信託中の不動産の差押えについては可能であることの確認はできましたが、実はこの土地に5億円を超える抵当権が新たに設定されてしまっています」篠原弁護士は電子メールで山田と倉橋、そして秘書の小林に報告してきた。「詳細について、当事者である山田様のご家族に詳細を説明したいと考えますが、如何でしょうか」
「私としては、前回、倉橋様より充分な説明を受けていますし、我々は、法律的には素人です」山田は、同報の電子メールで篠原弁護士に回答した。「倉橋様、小林様に、全権限を委任してお願いしていますので、どうか存分に手続きを進めてください」
「しかし、我々、弁護士としても、リスク説明をしないまま手続きを行うことは、若干、不安を覚えます」不動産評価を超える抵当権が設定された不動産に、仮差押え手続きを行って、依頼者に負担を強いる結果となる可能性があることに抵抗を感じたのか、篠田弁護士のかなり慎重な態度が窺えた。「山田様のご家族様と、倉橋先生と同伴して打合せをさせて頂くわけにはいかないでしょうか」
「篠田先生へ 山田側も私も腹を括って、この仮差押えに臨んでいます」倉橋は、篠原弁護士の弱気な態度に速度が遅れることを恐れ、作戦に出た。「あとは篠原先生がどれだけ弁護士のプライドをかけて戦えるか、だけだと思います」
「倉橋先生へ 転売される可能性は当方も十分承知しています。本件は利害関係人が多数存在し、法律関係が複雑です」篠田弁護士は倉橋の電子メールに明らかに不快感を持って回答した。「中岡不動産は権藤の会社からの直接の転得者ですが、現時点では信託受益権の登記が行われています。つまり相手方は信託を受けた者であり、さらに山田様からはかなり離れた地位にあります。権藤の会社の財産に対して、仮差押をかけるような単純な事例ではありません。さらに多岐に渡り、根抵当権、信託登記もたくさんついて、分析するのも、資料のコピーをとるのも時間がかかることをご理解下さい。私は全ての私生活を捨て土日も事務所にでて資料を分析し、何度も法律構成を考え、何度も仮差押申立書、仮処分申立書を書き直しました。私なりにプライドをかけて全力しているつもりです」
「篠田先生の努力も分かっています。しかし我々の仕事は、結果が全てだということです」
倉橋は、彼の将来性に賭けて、突き放すように返事を書いた。「我々は今更、法律を学ぼうと思っていません。先生には、法的手続きをお願いしているのです」
これには篠田弁護士は強い不快感を持ったようだが、これ以上、進行を遅らせるわけには行かないし、倉橋と山田の中では方針が決まっていた。何より今更、篠田弁護士が山田の家族に詳細を説明することによって、家族の誰かが不安感を持って、この差押え手続きを取り下げるなどとなっては、さらに進行度合いが遅延する。
その日から篠田弁護士は、睡眠時間をも削って、この事件に没頭してくれた。
差押える土地は12筆に分かれており、山田側の相続人は4人である。この12筆の土地をそれぞれ区分して仮差押えを行うわけだが、この作業だけでもかなりの時間が掛かる。その上、裁判所の見解がぶれる為、いちいち裁判所に篠田弁護士は足を運んだ。
「倉橋先生、一定の条件付ですが、裁判所で、仮処分と仮差押えの申立ての受理ができることになりました」篠田弁護士から、倉橋の事務所に電話が入った。その声は年齢に相応しい明るい声だった。
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