「篠原先生、ちょっとスピードを上げないと、全部売られて、一円も返ってこない事態もありえるよね」倉橋は、篠原弁護士と電話で話した。「権藤の会社が破産してしまった訳だから、後は、中岡不動産からの転売を阻止しないと、まずいでしょ」
「ええ、それは分かっているんですが、山田さんのお父さんが亡くなったことで新たな書類が必要になりますし、第一、裁判所は、リスクを考慮しているのか、相変わらず対応が消極的なんです」ちょっと気弱そうな声で、篠原弁護士は言った。「権藤の破産管財人とも、いろいろ事情を話させてもらい、協力も取り付けたりして、調査は進めています。その中で驚いたことは、やはり同様な手口で騙された人も数人いるようです」
「やっぱりな。この事件、裏で糸を引いてる奴がいるだろうな」倉橋は、権藤の会社のように資本力があるわけでもない会社で、かつ権藤自身が末期癌。もちろん、この事件や他の事件を引き起こした後に癌に蝕まれたのかもしれないが、かような環境で複数の人を騙すだけの情報を入手することはできないだろうし、騙し取った金は少なくとも数十億円になる。この金を使い切るような事業などしていないし、破産したときの財産は、ほとんどないに等しいことを考えれば、誰かが裏で糸を引き、権藤自身は、単なる雇われ詐欺師だったに違いないと考えるのが普通である。「どこかに騙し取ったお金を隠しているんだろうけど、見つけるのは難しいだろうな」
「私も同感です」篠原弁護士は言った。「日本の司法制度と法律の限界です」
先にも書いたが、今回のような事件は刑事事件で立件しても、あまり取り上げられることがない。本来であれば、警察と連携して民事裁判が同時並行して行えれば、かような詐欺集団の検挙は可能となり、併せて隠匿された資金を押さえて回収し、被害額を縮小することができる。ところが、警察は「民事不介入」を理由に被害者や裁判所と協力して事件解決を図ってくれることは、まず、ない。従って、詐欺師は捕まったところで刑量が軽く、検挙されるリスクも低いから商売として成り立ってしまうのだ。そんな背景から、不動産や利権に絡む大型詐欺事件は増加する傾向にあるのである。
「いずれにしても、手続きを急ぎましょう」倉橋は大局的なことより、目先の手続きが遅れることのリスクを感じた。
その後、篠原弁護士は度重なる裁判所との打ち合わせを進めてはいたものの、この事件の特異性と被害額が甚大なこと、また、仮に保全手続きを行うことで、現在、山田の不動産を購入したことになっている中岡不動産が蒙る損害を考慮すると、その判断の責任の重さから慎重な姿勢にならざるをえない。結局、手続きが遅々として進まなかった。
「社長、ちょっとこれ、見てください」倉橋の秘書、小林が血相をかえて登記事項証明書を持ってきた。「気になっていたのでインターネットで調べてみたんですが、中岡不動産、信託登記を行っていますよ」
「ファンドに売るつもりなんだろうな」当時、外資系のファンドが日本の不動産を買い漁っていた。欧米で低所得者向け住宅ローン、いわゆる「サブプライムローン」の証券化で稼ぎまくっていた外資系投資銀行は、その資金運用の手口を日本にも導入して、不動産の証券化を進めていた。「いずれにしても、相手は動きを早めている。急がないとな」
「篠原先生、とにかく急がないと、保全手続き自体ができなくなっちゃうんじゃない」倉橋は早速、篠原弁護士に状況を説明して、事務手続きの速度を速めるように促した。「信託物件といえども、仮差押手続きとかなら、保全と同時に進行できるんじゃないかな」
「ええ、それは多分、先生の言うとおりですが、そもそも保全手続きでも損害賠償請求を受ける恐れがあるのに、それはあまりにも危険な賭けになりませんでしょうか」篠原弁護士は、困惑した表情で倉橋に言った。「山田さんが抱えるリスクを考えると、弁護士としてそこまでは提案できません」
「現時点で裁判所が保全手続きに応じない状況なんだから、ポーズでも仮差押手続きをしてみれば、こちらの真意が伝わるかもしれない」倉橋は裁判所が本件の申し立ての内容について、あまりにも現実味のない事実である為、担当者の責任回避の為にテーブルに乗せないのだろうと踏んでいた。「多分、すでに抵当権がつけられているから、仮差押手続きを行っても受理される保証はないけど、こちらは、それくらいリスクを背負っても、事実関係を明らかにしようとしているという印象は裁判所に与えられると思うよ」
「そこまでおっしゃるなら、先生のほうで、山田さんの相続人全部の承諾を得られるようにしてもらえませんか」篠原弁護士は、自らの説得では難しいと判断したのか、倉橋に山田側の説得を依頼した。
「それって、どのくらいのリスクがあるんですか」山田は、電話の向こうで倉橋に、率直に意見を求めた。
「正直、見当がつかない」倉橋も、忌憚ない意見を山田に伝えた。「どうも5億円近い価格で売り抜こうという意図があるようだから、相手方は、仮差押が成立した時点で売買ができなくなり、2割程度の損害金、つまり1億円くらいのことは言うかもしれません」
「え、でも、先生、そんなお金、うちにはありません」山田は、気弱に言った。
「仮に、相手方が損害賠償請求の事件を起こしたところで、こちらは今度、受けて立つ側だから、今回の事実関係をちゃんと説明できれば、裁判では相手方の過失なども考慮される可能性はあると思うけどね」
「では、逆に、この手続きを行わないことによって、想定されるリスクってどのようなことですか」山田は、心配そうな、か細い声で言った。
「裁判所が本件をテーブルに乗せないまま、土地は転売されてしまう可能性があります」
倉橋は、既存の裁判制度の問題を歯がゆい思いで事実を伝えた。
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